「放蕩息子」のスト―リは知って人もたくさんいるですよね。
とても感動できる聖書のたとえ話の一つです。
その物語は父さんの息子への限りない愛をテーマにしています。
このストーリに出てくる、お父さんから自分の分の財産をもらって家を出て行ってしまう息子。
彼は、なるべくお父さんのいるところから離れた遠い国へ旅立ち、そこで好き勝手に自分のやりたいことをやりまくります。
僕たちが思いつくやりたいことはすべてやりつくしたこの放蕩息子は、あっという間にビンボーになってしまいます。
さらに運の悪いことに、飢饉がその国を襲って、生きていくために豚の世話係をやるはめになってしまいました。
そんな状況になって初めて、お父さんの所に戻ろうとする息子。
僕たちにしてみれば、
「やりたいことだけやって、困ったら助けを求める。なんて身勝手な息子なんだ!」
と叫びたくなります。
けど、息子は心から反省してました。
奴隷になる覚悟をして、お父さんの家へ向かいました。
すると、まだ家から遠かったのにお父さんは息子を見つけ抱きつき、口づけしました。
それは何を意味していたんでしょう・・・
たぶん、父さんは息子がいつ帰ってくるのか、いつ帰ってくるのかと心配し、息子が帰ってきたらいつでも迎えることができるように、毎日あたりを探しまわっていた、という意味にはならないでしょうか??
実はこの物語は、前にも言いましたがたとえ話です。
「お父さん」 は 「神さま」、
「息子」 は僕たち「人間」
にたとえられているんです。
つまり、この物語で一番伝えたかったことというのは、
神さまは、あなたが帰ってくるのを今か今かとずっと探して待っていてくださってるんですよ~^^
ということです。
以下聖書より
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。
それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。
『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。
『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。
『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』
そして彼らは祝宴を始めた。・・・・」
(ルカの福音書15:11~24)。
☆今日の聖書のことば
「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」
(イザヤ 43章11節)